『NT』は句読点。未来への布石
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――『機動戦士ガンダムNT』の骨子となる小説『機動戦士ガンダムUC 不死鳥狩り』を書かれた段階で、今回のような映像化を想定されていたんですか?
福井:当時は全く想定していなかったんですけど、映像化しようと言ったのも俺ですし、こういう内容に変えようと言ったのも俺なんですよ。小説『不死鳥狩り』は『機動戦士ガンダムUC』の前日譚を含みますが、それを映像でやると『UC』本編の八掛けになってしまうんですよね。それよりも、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』から『UC』へと積み上げてきたものがあるわけだから、むしろ『UC』の先へ、さらに未来を描くラインを敷いたほうがいいだろうと。それに(お台場に)実物大ユニコーン・ガンダムの立像が立っているのに、その新作の映像がないっていうのも、足りない感があったんですよね。
――そこにあったのは、『UC』で課題として残されたものを前に進めるという感覚でしょうか?
福井:いや、課題としていたものは『UC』で一応全部やりきっていると思います。だから改めて掘り起こすとなると、どえらいことにはなるなと思いましたね。例えば、『UC』の最後をああいう風にしてしまったことに触れず、涼しい顔をして続きの話をやっていくということは無理だろうと。だから、そことは真正面から向き合うことにしました。今回の『NT』を句読点として、今後さらに次のものに繋げていくための布石として作った、ということだと思います。
――『UC』から『NT』への流れは、宇宙世紀における『逆襲のシャア』と『機動戦士ガンダム F91』の間を埋めていく作品だとも言えますが、この時代設定で描くべきテーマは何だと、福井さんご自身は考えていましたか?
福井:『UC』の時は本当に単純だったんです。巨大なガンダム市場があると言われていて、月刊ガンダムエースみたいな雑誌も出ているのに、全然ファン層を掘り起こせてないじゃないかと。ファーストガンダムの時代のガンダムブームって、ポケモンブームに近いものがあったんですよね。今ではガンダム、アニメはクラスのごく一部の地味な子たちのものになっているかもしれないけれど、当時はいじめっ子もいじめられっ子も全員がガンダムのファンだったんです。それが『UC』を作る頃にはクラスの少数のものになってしまっていて、これはやっぱり作っているもの自体に問題があったのだろうと。だったら、皆をもう一度呼び戻せるものを一度作ろうとしたのが『UC』でした。ガンダムの宇宙世紀の物語を現代風にアップデートしながら向き合い、かつ、アムロのシャアの物語の決着を……と言うか、あの決着と呼ばれたものは一般の人が観たら非常に分かりづらいものでしたよね。それがガンダムっぽいと呼ばれる点かもしれないけれど、そのガンダムっぽさって、俺たちがガンプラを買うためにデパートで並んだ時のガンダムっぽさとは明らかに違って、富野由悠季という作家の個性に収斂していったものなんです。だから、そこからはいったん解き放たれようと。アムロとシャアの物語が終わった、でもその残り香の中で、シャアの亡霊のようなキャラクター(フル・フロンタル)も出てくるわけですけどね。また、今回は視聴対象が大人なわけだから、少年に自分を同化させて、アムロやカミーユのような青春物語を一から始めるのは億劫で観ていられないだろうと。なので『UC』では視聴者が主人公のバナージを見守る親の視点、彼を戦場に送り出す大人の視点で観られるようにしたんです。お陰様でヒット作になったわけですけど、唯一想定外だったのは、若い視聴者が意外と付いてきてくれたことでした。でも、考えてみたら、俺が子供の頃に観ていたファーストガンダムも、別に子供に向けて分からせようなんて、全く考えて作られていなかったよなって(笑)。
――(笑)。
福井:お客さんに対して極めてツンな作品だったわけですよ。最近は徹底的にお粥のように柔らかくした作品ばかりになっていて、ガンダムもそれをやりかけていた時代がありましたけど、そうなると若者にとって数あるリソースの一つに過ぎなくなってしまう。“わかるなら観てもいいよ”っていう極めて不親切な姿勢で作られた作品を、背伸びして観る感覚こそが本来的なガンダムの醍醐味なんですよ。でも、今風だなと思ったのは、『UC』が面白かったからと言って、ファーストガンダムを観直したっていうお客さんはほとんどいないんですよ。そのくらいライトなユーザー層をどうやら開拓できてしまったらしいっていう。であるならば今度の『NT』は、俺たち大人の視点で作る必要はない、若い彼らの視点で、彼らがガンダムに乗り込むような感覚を持ちうる物語にしようと思ったんです。
――『NT』には『逆襲のシャア』や『機動戦士Zガンダム』のフラッシュバックも含まれていますし、ニュータイプの総括作品として、今回の『NT』と『UC』はかなり異なりますよね。
福井:ええ、それはまさに名は体を表すということですよね。ユニコーンはUC(宇宙世紀=UC.)ですから世界の話。NTは文字通りナラティブ(物語)なので、ニュータイプの思想の話になっていく。これは対の構造なんです。この思想の話としてのニュータイプって、今量販店などでガンプラ買っている人たち全員が理解できる話か?っていうと、ちょっと突っ込みすぎかなとは思ったんです。でも、先ほども言いましたように『UC』の最後でかなり無茶なことをやったので、「あれは何だったの?」っていう。もちろん我々には確固たる論理があってやったんですけど、でもまあ、トンデモには見えるよねと。これまでも、続編以降のガンダムはいつもそうでしたしね。でも、今までのガンダムを含めて、ああいう一見トンデモなことになるのって、実はちゃんと論理立ったものがあるんですよ、ってことをここで説明すれば、『UC』でモヤモヤした人たちへの返答にもなるし、そもそものニュータイプ論の再定義にもなるので、今ならマスに繋がるかなと。
――確かに『NT』には、これまでのガンダムの「トンデモ」の種明かしのような役割もあると感じられました。
福井:うん、ある意味ね。種明かしというか、落ち着いて考えたらこうだった、ってことなんです。ファンとして観ていた頃はそんなことは全く考えもしなかったですけどね。『逆襲のシャア』を観た時は、「なんだこれ、意味わからん」と(笑)。その後、二度と振り返ることもなかったですし。『UC』でガンダムと向き合わなくてはならなくなった十数年前に、初めてシリーズを全部見返して、あれ?これもしかして……と考え始めたんです。ニュータイプをちゃんと描くのはガンダムの続編でお客さんを呼ぶにはマストだと思っていたので、自分の中で消化しないとどうにもならなかったんです。少なくとも自分の中では完全に腑に落ちていないといけなかった。それで頑張って見返しているうちに、あれ?これ頑張らなくても腑に落ちるように出来てるわ、ということにある時はたと気づいて、それを元に作ったのが『UC』です。なので今回の『NT』ではそれをもっと噛み砕いて、説明したかったんです。