脚注 [ヘルプ]
注釈
^ ただし赠正二位と赠内大臣は『平家物语』のみの记载で他の文献に同内容は见当たらない。
^ 后出本の『平治物语』によると美浓国青墓宿の义朝の妻の名は延寿となっているが、成立年代の古い『平治物语』においては「大炊」となっている。また『吾妻镜』にも左典厩宠者「大炊」と记载されている。
^ 女子として江口腹娘、夜叉御前という二人の娘が『平治物语』の后出本に登场する。しかし両者とも后出本にのみ登场し成立年代の古い『平治物语』やその他文献には登场しない。『尊卑分脉』には女子(一条能保室)の隣に「女子」とのみ记されその女子の详细は不明である。
^ 元木泰雄(元木 [2004])は、义朝の弟义贤が先に任官していたのに义朝は无位无官であった为、廃嫡されて东国に下ったと见ている。高桥典幸は『源頼朝 东国を选んだ武家の贵公子』(山川出版社)において元木泰雄と同様の理论で义朝が嫡子でないと主张している。永井晋は『镰仓源氏三代记』(吉川弘文馆)の中の「河内源氏と摂津源氏ープロローグ」において、义朝を为义の庶长子と记载している。
^ また、义朝が左马头となることによって、马牧の経営者である东国武士との间の主従関系を强化することが可能となったという见方もある(野口 [1998])。
^ 従来源氏と称する武士たちは源义朝に従属するものとみなされていた。だが実は源光保は二条天皇侧近の立场として独自の意志で信頼に与力し、光保の参戦には义朝の意向が働いていたわけではない。また、季実と重成は义朝の同族支配下にあるものではなく义朝の同盟者であった。武门源氏が全て河内源氏の当主に従属するのが当然という见方は镰仓幕府成立以降の観念である(元木 [2004])。
^ 従来通说では、义朝と清盛は対等の武家栋梁と认识されていたが、近年の研究ではかならずしも対等ではなく、义朝と清盛の间に大きな格差が保元以前に存在していたことが指摘されていている。上记の保元の乱の项でも清盛と义朝との间に官位の格差が元々あったことが述べられているが、保元の乱后の大内裏の造営において両者の间に大きな経済格差が存在していたことが指摘されている。この造営において清盛が仁寿殿、頼盛が贞観殿、教盛が阴明门、経盛が淑景舎と重要な建物を造営したのに対して、义朝は北廊を负担していたに过ぎない(野口 [1998] )
^ 『愚管抄』の记述を史料に义朝の縁组の申し入れに対して信西が「我が子は学者であるので、武门の家の聟には相応しくない」と拒否しながら同じ武家である平家と縁组したことなど、あからさまな冷遇を受けたことに対して义朝が不満を募らせたといわれる说。
^ 縁谈に関しては、院近臣として四位五位くらいの地位にいた信西の子と、祖父の代から顺调に升进を重ね自らは公卿一歩手前で、その弟达や子供もそれなりの官位を得ている清盛の家では钓り合いが取れているのに対して、父为义やはずっと受领にもなれず保元の乱直前に自らが受领それも下国の下野守になれた义朝の家では信西の子とは家格的に钓合いが取れない(清盛と义朝の家が同等をみなされるのは镰仓幕府成立以降の视点で当时は清盛と义朝の家格は同等のものではなかった)。その観点からすると义朝の縁谈の申入れは彼からしてみればかなりの无理を承知で申し入れたもので、信西の子と义朝の娘との婚姻の非成立と清盛の娘との縁谈の成立が信西への遗恨に発展することは有り得ない。また、信頼に対する酷评は败者としてのものであり、信頼の能力が実际に低いわけではなく、官位上升も当时人事に関して発言権のあった信西の了承のもと行なわれていた可能性もあり、また信頼の官位の升进の停止の原因はその上位者の官位の空きがなかったことであり、信西一人の妨害によるものではない、等のことが示唆されている(元木 [2004])。
^ ただし、山田邦和は论文「保元の乱の関白忠通」(胧谷寿・山中章 编『平安京とその时代』所収 思文阁出版、2009年(平成21年)。 ISBN 978-4-7842-1497-6)の中で义朝を无能な人物であるとする厳しい评価を下す。その中で保元の乱における后白河天皇方の最终目的は崇徳上皇と藤原頼长を生死を问わず确保することであったのに、全く见当违いの场所を捜索した结果、上皇と頼长は平安京の中心部を通って脱出に成功し、挙句の果てには戦闘终结后にも関わらず「王権」の象徴である法胜寺を焼き払おうとした(『保元物语』)ことなどを挙げ、义朝は10骑単位での小竞り合いに长けている程度の人物で、政治的駆け引きが重要である都での戦いではその马脚をあらわしたとしている。