新闻出自朝日新闻
http://www.asahi.com/showbiz/stage/spotlight/OSK201010190031.html
忧愁の男役がみせるロシア文学の世界 宝冢「オネーギン」
幕开き、大きなダブルベッドに、逢瀬の翌朝と思われる男女…「えっ? これがタカラヅカ?」と客席のほうがドギマギ。やおらベッドから起き上がる美男は、ペテルブルグ一の伊达男と评判のエフゲーニィ・オネーギンだ。こんなシーンをさりげなくこなしてしまうのも、男役キャリア25年の轰悠ならでは、か。
10月15日、东京の日本青年馆で初日の幕を开けた、宝冢雪组のミュージカル「オネーギン」。原作はいうまでもなく、ロシアの文豪プーシキンの同名の小说だ。オペラやバレエでは、オネーギンと纯粋可怜な田舎娘タチヤーナとの恋爱物语として知られる。宝冢版にはそこに、ロシア革命前夜という时代背景を巧みに络ませることで、主演の轰悠の持ち味に合う形でオネーギンの人物像を掘り下げ、スケール感のある仕上がりとなった。
ときは19世纪初头、ちょうど「ベルサイユのばら」の30年ぐらい后のロシアが舞台である。このころ、フランス革命を経たヨーロッパ诸国では新しい自由思想が吹き荒れ、青年贵族オネーギンもそういった时代の空気に感化されながら育つ。だが、谁よりも聡明で早熟な彼には、革命の梦と同时に限界もみえてしまうのだった。
途中、要所要所で时を遡らせ、オネーギンを14歳の自分自身(彩凪翔)と向き合わせながら物语を进める手法が効果的。复雑なオネーギンの人格が、どのように形成されていったのかがよくわかる。
むなしさから逃げるようにペテルブルクの女たちと恋爱三昧の日々を送るオネーギン。そんな彼の心を初めて揺るがしたのが、田舎の领地の近隣の娘タチヤーナ(舞羽美海)だった。美しい自然のなかで育ち、読书を爱し、自分を着饰ること、人に媚びることを知らぬタチヤーナ。彼女もまたオネーギンに惹かれていく。
だが、オネーギンは「自分のような人间は彼女に相応しくない」と、彼女の気持ちを素直に受け止めることができない。それどころか、タチアーナに见せ付けるかのように妹オリガ(透水さらさ)にわざと近づき、结果それが、思いも寄らぬ悲剧を招いてしまう…。
2幕は5年后。放浪の旅から帰ってもなお心の伤が愈えないオネーギン。革命を志す青年将校ドミトリー(莲城まこと)らとも接するが、彼らのもとに飞び込んでいくことはできず、なお自らの生きる意味を烦闷し続ける。そして、ぺテルブルクに戻った彼は、ついにタチアーナとの再会を果たすのだが…。
全编通じて流れるのが、ロシアの风土、そして帝政ロシアの终焉を感じさせるような、美しくも哀しい空気だ。
ヒロインのタチアーナを演じるのは、入団4年目の舞羽美海。1幕から2幕、时の流れのなかで、纯粋な梦见る少女から、现実を见据えた大人の女性への见事な変貌ぶりを见せた。次の宝冢大剧场公演、「ロミオとジュリエット」のジュリエット役に向けての良いステップとなりそうだ。
前半の悲剧の立役者となるオネーギンの友人、レンスキー(彩那音)は、その持ち味からかもし出す纯朴さが、オネーギンとの好対照。何故かずっと名前が明かされず、「ちぢれっ毛のお友だち」とだけ呼ばれ続ける男(绪月远麻)が、程よい距离感でオネーギンに寄り添う。彼がいったい谁なのかは、観てのお楽しみということで。
女性阵では、冒头のベッドシーンのお相手でもある女优ニーナ(凉花リサ)。オネーギンの爱人のひとりだが、オネーギンという男を谁よりもわかっている「いい女」の典型。オデッサの社交界を仕切るフランス亡命贵族のカテリーナ・ブノア侯爵夫人(花帆杏奈)は、时代を动かすキーパーソンだ。
この他に、タチアーナの夫グレーミン公爵(香绫しずる)が、オネーギンに対峙する役どころで包容力を见せる。自分に良く似たオネーギンに深い爱情を注ぐ叔父のワシーリィ老人(一树千寻)。オネーギンの母、マリーヤ(美穂圭子)は贵族の夸りと厳格さを、タチアーナの母、ラーリナ夫人(麻树ゆめみ)はごく普通の母亲らしい温かさを、それぞれ歌声で渗ませる。
それぞれの役がオネーギンと络むことで、彼の内面が动き、物语が展开していく。结果として「芝居の雪组」の本领発挥の、见どころの多い作品となっている。かつて雪组のトップスターであった轰悠が、雪组若手メンバーを率いての公演。轰の「育てたい」という気概と、周囲の「付いていく」気合が见事にマッチし、チームワーク抜群の舞台となった。
时代の変わり目に生きたオネーギンの抱えるむなしさは、21世纪に生きる私たち一人ひとりのむなしさでもある。しかし、そんな时代でも…いや、そんな时代だからこそ、存分に生きるべきなのだ…死にゆくワシーリィ叔父からオネーギンへのメッセージが心に响く。重い悲剧だが、决して后味は悪くない。フィナーレ効果も手伝って、観终わった后には不思议と元気が沸いて来る。
それにしても、「ノバ・ボサ・ノバ」のソール、「凯旋门」のラヴィック、専科に异动してからは「キーン」、昨年の「コインブラ物语」でのペドロと、最后はひとりになってしまう役どころの多い轰悠だが、今回、その振られっぷりが、ひときわ见事であった。そう、轰にはやはり、ひとり孤独に旅立つ姿が似合うのだ。
http://www.asahi.com/showbiz/stage/spotlight/OSK201010190031.html
忧愁の男役がみせるロシア文学の世界 宝冢「オネーギン」
幕开き、大きなダブルベッドに、逢瀬の翌朝と思われる男女…「えっ? これがタカラヅカ?」と客席のほうがドギマギ。やおらベッドから起き上がる美男は、ペテルブルグ一の伊达男と评判のエフゲーニィ・オネーギンだ。こんなシーンをさりげなくこなしてしまうのも、男役キャリア25年の轰悠ならでは、か。
10月15日、东京の日本青年馆で初日の幕を开けた、宝冢雪组のミュージカル「オネーギン」。原作はいうまでもなく、ロシアの文豪プーシキンの同名の小说だ。オペラやバレエでは、オネーギンと纯粋可怜な田舎娘タチヤーナとの恋爱物语として知られる。宝冢版にはそこに、ロシア革命前夜という时代背景を巧みに络ませることで、主演の轰悠の持ち味に合う形でオネーギンの人物像を掘り下げ、スケール感のある仕上がりとなった。
ときは19世纪初头、ちょうど「ベルサイユのばら」の30年ぐらい后のロシアが舞台である。このころ、フランス革命を経たヨーロッパ诸国では新しい自由思想が吹き荒れ、青年贵族オネーギンもそういった时代の空気に感化されながら育つ。だが、谁よりも聡明で早熟な彼には、革命の梦と同时に限界もみえてしまうのだった。
途中、要所要所で时を遡らせ、オネーギンを14歳の自分自身(彩凪翔)と向き合わせながら物语を进める手法が効果的。复雑なオネーギンの人格が、どのように形成されていったのかがよくわかる。
むなしさから逃げるようにペテルブルクの女たちと恋爱三昧の日々を送るオネーギン。そんな彼の心を初めて揺るがしたのが、田舎の领地の近隣の娘タチヤーナ(舞羽美海)だった。美しい自然のなかで育ち、読书を爱し、自分を着饰ること、人に媚びることを知らぬタチヤーナ。彼女もまたオネーギンに惹かれていく。
だが、オネーギンは「自分のような人间は彼女に相応しくない」と、彼女の気持ちを素直に受け止めることができない。それどころか、タチアーナに见せ付けるかのように妹オリガ(透水さらさ)にわざと近づき、结果それが、思いも寄らぬ悲剧を招いてしまう…。
2幕は5年后。放浪の旅から帰ってもなお心の伤が愈えないオネーギン。革命を志す青年将校ドミトリー(莲城まこと)らとも接するが、彼らのもとに飞び込んでいくことはできず、なお自らの生きる意味を烦闷し続ける。そして、ぺテルブルクに戻った彼は、ついにタチアーナとの再会を果たすのだが…。
全编通じて流れるのが、ロシアの风土、そして帝政ロシアの终焉を感じさせるような、美しくも哀しい空気だ。
ヒロインのタチアーナを演じるのは、入団4年目の舞羽美海。1幕から2幕、时の流れのなかで、纯粋な梦见る少女から、现実を见据えた大人の女性への见事な変貌ぶりを见せた。次の宝冢大剧场公演、「ロミオとジュリエット」のジュリエット役に向けての良いステップとなりそうだ。
前半の悲剧の立役者となるオネーギンの友人、レンスキー(彩那音)は、その持ち味からかもし出す纯朴さが、オネーギンとの好対照。何故かずっと名前が明かされず、「ちぢれっ毛のお友だち」とだけ呼ばれ続ける男(绪月远麻)が、程よい距离感でオネーギンに寄り添う。彼がいったい谁なのかは、観てのお楽しみということで。
女性阵では、冒头のベッドシーンのお相手でもある女优ニーナ(凉花リサ)。オネーギンの爱人のひとりだが、オネーギンという男を谁よりもわかっている「いい女」の典型。オデッサの社交界を仕切るフランス亡命贵族のカテリーナ・ブノア侯爵夫人(花帆杏奈)は、时代を动かすキーパーソンだ。
この他に、タチアーナの夫グレーミン公爵(香绫しずる)が、オネーギンに対峙する役どころで包容力を见せる。自分に良く似たオネーギンに深い爱情を注ぐ叔父のワシーリィ老人(一树千寻)。オネーギンの母、マリーヤ(美穂圭子)は贵族の夸りと厳格さを、タチアーナの母、ラーリナ夫人(麻树ゆめみ)はごく普通の母亲らしい温かさを、それぞれ歌声で渗ませる。
それぞれの役がオネーギンと络むことで、彼の内面が动き、物语が展开していく。结果として「芝居の雪组」の本领発挥の、见どころの多い作品となっている。かつて雪组のトップスターであった轰悠が、雪组若手メンバーを率いての公演。轰の「育てたい」という気概と、周囲の「付いていく」気合が见事にマッチし、チームワーク抜群の舞台となった。
时代の変わり目に生きたオネーギンの抱えるむなしさは、21世纪に生きる私たち一人ひとりのむなしさでもある。しかし、そんな时代でも…いや、そんな时代だからこそ、存分に生きるべきなのだ…死にゆくワシーリィ叔父からオネーギンへのメッセージが心に响く。重い悲剧だが、决して后味は悪くない。フィナーレ効果も手伝って、観终わった后には不思议と元気が沸いて来る。
それにしても、「ノバ・ボサ・ノバ」のソール、「凯旋门」のラヴィック、専科に异动してからは「キーン」、昨年の「コインブラ物语」でのペドロと、最后はひとりになってしまう役どころの多い轰悠だが、今回、その振られっぷりが、ひときわ见事であった。そう、轰にはやはり、ひとり孤独に旅立つ姿が似合うのだ。