讨逆伝孙策は字を伯符という。孙坚が初めに义兵を起こしたとき、孙策は母を引き连れて舒に移住し、周瑜と友达となり、士大夫たちを集めたばねると、长江・淮水流域の人々はみな彼を頼っていった。[一]孙坚が薨じると、曲阿に亡骸を移した。长江を渡ってからは江都に住まいした。[二]
[一] 『江表伝』に言う。孙坚は朱儁に上表してもらって佐军となり、家族を寿春に残し(て、中央に出仕し)た。孙策は十歳余りだったが、早くも交わりを结んだりして名を知られ(?)、名誉名声は噂となって飞び出した。周瑜という者がいて孙策と同い年だったが、やはり英迈阔达で夙成しており、孙策の名声风闻を闻くと、舒から出てやってきた。すぐに推结分好し、信义を同じくして金をも断ちきるほどだった。孙策に舒に移住するよう勧め、孙策もそれに従った。
[二] 『魏书』に言う。孙策は(乌程)侯の爵位を(父孙坚から)嗣ぐべきであったが、弟孙匡に譲り与えた。
徐州牧陶谦はひどく孙策を嫌っていた。孙策の舅呉景が当时丹阳太守であったので、孙策はそこで母を车に载せて曲阿に移り、吕范・孙河とともに呉景に身を寄せ、伝手を頼って募集をかけると数百人が手に入った。兴平元年(一九四)、袁术に従属した。袁术は彼を非常に立派だと思い、孙坚の部曲を孙策に返してやった。[一]太傅马日磾は节を杖突きながら関东を慰抚していたが、寿春にいたとき礼をもって孙策を招き、上表して懐义校尉の官职を授けた。袁术の大将乔蕤・张勲はみな心を倾けて(孙策を)尊敬した。袁术はいつも叹息して言っていた。「袁术に孙郎のような子があれば、死んでもまた思い残すことはないのになあ!」孙策の骑士が罪を犯し、袁术の阵営に逃げ込んで阵中の廐に隠れた。孙策は指差しながら人をやって彼を斩らせた。事後、袁术のもとに出头して谢罪した。袁术は言った。「兵士は叛逆を好むものだ。一绪になってそいつらを憎むのが当然なのに、どうして谢罪なぞするんだね?」このことから、军中ではますます彼を畏れ惮った。袁术は初め孙策が九江太守になることを许诺していたが、あとになって後任に丹阳の陈纪を登用した。のちに袁术は徐州を攻撃したいと思い、庐江太守陆康に米三万斛を求めたが、陆康が承诺しなかったので、袁术は大いに怒った。孙策はむかし陆康のもとに参向したことがあったが、陆康は会おうとせず、主簿に彼を接待させた。(そのため)孙策は常々恨みに思っていた。袁术は孙策をやって陆康を攻撃させ、告げて言った。「以前、错って陈纪を登用したが、いつも本心を贯けなかったことを悔やんでいたものだ。今度もし陆康を捕らえられたなら、庐江は本当に卿のものだぞ。」孙策は陆康を攻撃し、それを陥落させた。袁术はまたもや彼の故吏の刘勲を登用して太守としたので、孙策はますます失望した。それ以前、刘繇が扬州刺史となっていたが、州の古くからの治所は寿春であった。寿春はすでに袁术に占拠されていたので、刘繇はそこで长江を渡って曲阿に治府を置いた。当时、呉景はなお丹阳におり、孙策の従兄孙贲もまた丹阳都尉であったが、刘繇は着任すると、彼らを圧迫して全て追い出してしまった。呉景・孙贲は立ち去って歴阳に宿営した。刘繇は樊能・于麋・陈横を派遣して长江の渡し场に屯させ、张英には当利口に屯させ、そうして袁术を距んだ。袁术は自分で登用して、故吏である琅邪の恵衢を扬州刺史とし、さらに呉景を督军中郎将とし、孙贲と一绪に军势を率いさせて张英らを攻撃させたが、何年ものあいだ胜つことができなかった。孙策はそこで袁术を说得し、呉景らを援助して江东を平定したいと请愿した。[二]袁术は上表して孙策を折冲校尉とし、殄寇将军を代行させたが、军势はわずか千人余り、骑马は数十匹、宾客のうち従军を愿う者は数百人であった。歴阳に到达するころには、军势は五・六千人になっていた。孙策の母は先だって曲阿から歴阳に移っていたが、孙策はさらに母を阜陵に移动させた。长江を渡って転戦したが、向かうところ全て撃破し、あえてその锐锋にぶつかる者はなかった。しかしながら军令が厳粛であったため、百姓は彼に懐いた。[三]
[一] 『江表伝』に言う。孙坚は朱儁に上表してもらって佐军となり、家族を寿春に残し(て、中央に出仕し)た。孙策は十歳余りだったが、早くも交わりを结んだりして名を知られ(?)、名誉名声は噂となって飞び出した。周瑜という者がいて孙策と同い年だったが、やはり英迈阔达で夙成しており、孙策の名声风闻を闻くと、舒から出てやってきた。すぐに推结分好し、信义を同じくして金をも断ちきるほどだった。孙策に舒に移住するよう勧め、孙策もそれに従った。
[二] 『魏书』に言う。孙策は(乌程)侯の爵位を(父孙坚から)嗣ぐべきであったが、弟孙匡に譲り与えた。
徐州牧陶谦はひどく孙策を嫌っていた。孙策の舅呉景が当时丹阳太守であったので、孙策はそこで母を车に载せて曲阿に移り、吕范・孙河とともに呉景に身を寄せ、伝手を頼って募集をかけると数百人が手に入った。兴平元年(一九四)、袁术に従属した。袁术は彼を非常に立派だと思い、孙坚の部曲を孙策に返してやった。[一]太傅马日磾は节を杖突きながら関东を慰抚していたが、寿春にいたとき礼をもって孙策を招き、上表して懐义校尉の官职を授けた。袁术の大将乔蕤・张勲はみな心を倾けて(孙策を)尊敬した。袁术はいつも叹息して言っていた。「袁术に孙郎のような子があれば、死んでもまた思い残すことはないのになあ!」孙策の骑士が罪を犯し、袁术の阵営に逃げ込んで阵中の廐に隠れた。孙策は指差しながら人をやって彼を斩らせた。事後、袁术のもとに出头して谢罪した。袁术は言った。「兵士は叛逆を好むものだ。一绪になってそいつらを憎むのが当然なのに、どうして谢罪なぞするんだね?」このことから、军中ではますます彼を畏れ惮った。袁术は初め孙策が九江太守になることを许诺していたが、あとになって後任に丹阳の陈纪を登用した。のちに袁术は徐州を攻撃したいと思い、庐江太守陆康に米三万斛を求めたが、陆康が承诺しなかったので、袁术は大いに怒った。孙策はむかし陆康のもとに参向したことがあったが、陆康は会おうとせず、主簿に彼を接待させた。(そのため)孙策は常々恨みに思っていた。袁术は孙策をやって陆康を攻撃させ、告げて言った。「以前、错って陈纪を登用したが、いつも本心を贯けなかったことを悔やんでいたものだ。今度もし陆康を捕らえられたなら、庐江は本当に卿のものだぞ。」孙策は陆康を攻撃し、それを陥落させた。袁术はまたもや彼の故吏の刘勲を登用して太守としたので、孙策はますます失望した。それ以前、刘繇が扬州刺史となっていたが、州の古くからの治所は寿春であった。寿春はすでに袁术に占拠されていたので、刘繇はそこで长江を渡って曲阿に治府を置いた。当时、呉景はなお丹阳におり、孙策の従兄孙贲もまた丹阳都尉であったが、刘繇は着任すると、彼らを圧迫して全て追い出してしまった。呉景・孙贲は立ち去って歴阳に宿営した。刘繇は樊能・于麋・陈横を派遣して长江の渡し场に屯させ、张英には当利口に屯させ、そうして袁术を距んだ。袁术は自分で登用して、故吏である琅邪の恵衢を扬州刺史とし、さらに呉景を督军中郎将とし、孙贲と一绪に军势を率いさせて张英らを攻撃させたが、何年ものあいだ胜つことができなかった。孙策はそこで袁术を说得し、呉景らを援助して江东を平定したいと请愿した。[二]袁术は上表して孙策を折冲校尉とし、殄寇将军を代行させたが、军势はわずか千人余り、骑马は数十匹、宾客のうち従军を愿う者は数百人であった。歴阳に到达するころには、军势は五・六千人になっていた。孙策の母は先だって曲阿から歴阳に移っていたが、孙策はさらに母を阜陵に移动させた。长江を渡って転戦したが、向かうところ全て撃破し、あえてその锐锋にぶつかる者はなかった。しかしながら军令が厳粛であったため、百姓は彼に懐いた。[三]