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日语版三国志(连载中)

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   讨逆伝孙策は字を伯符という。孙坚が初めに义兵を起こしたとき、孙策は母を引き连れて舒に移住し、周瑜と友达となり、士大夫たちを集めたばねると、长江・淮水流域の人々はみな彼を頼っていった。[一]孙坚が薨じると、曲阿に亡骸を移した。长江を渡ってからは江都に住まいした。[二]

[一] 『江表伝』に言う。孙坚は朱儁に上表してもらって佐军となり、家族を寿春に残し(て、中央に出仕し)た。孙策は十歳余りだったが、早くも交わりを结んだりして名を知られ(?)、名誉名声は噂となって飞び出した。周瑜という者がいて孙策と同い年だったが、やはり英迈阔达で夙成しており、孙策の名声风闻を闻くと、舒から出てやってきた。すぐに推结分好し、信义を同じくして金をも断ちきるほどだった。孙策に舒に移住するよう勧め、孙策もそれに従った。

[二] 『魏书』に言う。孙策は(乌程)侯の爵位を(父孙坚から)嗣ぐべきであったが、弟孙匡に譲り与えた。

徐州牧陶谦はひどく孙策を嫌っていた。孙策の舅呉景が当时丹阳太守であったので、孙策はそこで母を车に载せて曲阿に移り、吕范・孙河とともに呉景に身を寄せ、伝手を頼って募集をかけると数百人が手に入った。兴平元年(一九四)、袁术に従属した。袁术は彼を非常に立派だと思い、孙坚の部曲を孙策に返してやった。[一]太傅马日磾は节を杖突きながら関东を慰抚していたが、寿春にいたとき礼をもって孙策を招き、上表して懐义校尉の官职を授けた。袁术の大将乔蕤・张勲はみな心を倾けて(孙策を)尊敬した。袁术はいつも叹息して言っていた。「袁术に孙郎のような子があれば、死んでもまた思い残すことはないのになあ!」孙策の骑士が罪を犯し、袁术の阵営に逃げ込んで阵中の廐に隠れた。孙策は指差しながら人をやって彼を斩らせた。事後、袁术のもとに出头して谢罪した。袁术は言った。「兵士は叛逆を好むものだ。一绪になってそいつらを憎むのが当然なのに、どうして谢罪なぞするんだね?」このことから、军中ではますます彼を畏れ惮った。袁术は初め孙策が九江太守になることを许诺していたが、あとになって後任に丹阳の陈纪を登用した。のちに袁术は徐州を攻撃したいと思い、庐江太守陆康に米三万斛を求めたが、陆康が承诺しなかったので、袁术は大いに怒った。孙策はむかし陆康のもとに参向したことがあったが、陆康は会おうとせず、主簿に彼を接待させた。(そのため)孙策は常々恨みに思っていた。袁术は孙策をやって陆康を攻撃させ、告げて言った。「以前、错って陈纪を登用したが、いつも本心を贯けなかったことを悔やんでいたものだ。今度もし陆康を捕らえられたなら、庐江は本当に卿のものだぞ。」孙策は陆康を攻撃し、それを陥落させた。袁术はまたもや彼の故吏の刘勲を登用して太守としたので、孙策はますます失望した。それ以前、刘繇が扬州刺史となっていたが、州の古くからの治所は寿春であった。寿春はすでに袁术に占拠されていたので、刘繇はそこで长江を渡って曲阿に治府を置いた。当时、呉景はなお丹阳におり、孙策の従兄孙贲もまた丹阳都尉であったが、刘繇は着任すると、彼らを圧迫して全て追い出してしまった。呉景・孙贲は立ち去って歴阳に宿営した。刘繇は樊能・于麋・陈横を派遣して长江の渡し场に屯させ、张英には当利口に屯させ、そうして袁术を距んだ。袁术は自分で登用して、故吏である琅邪の恵衢を扬州刺史とし、さらに呉景を督军中郎将とし、孙贲と一绪に军势を率いさせて张英らを攻撃させたが、何年ものあいだ胜つことができなかった。孙策はそこで袁术を说得し、呉景らを援助して江东を平定したいと请愿した。[二]袁术は上表して孙策を折冲校尉とし、殄寇将军を代行させたが、军势はわずか千人余り、骑马は数十匹、宾客のうち従军を愿う者は数百人であった。歴阳に到达するころには、军势は五・六千人になっていた。孙策の母は先だって曲阿から歴阳に移っていたが、孙策はさらに母を阜陵に移动させた。长江を渡って転戦したが、向かうところ全て撃破し、あえてその锐锋にぶつかる者はなかった。しかしながら军令が厳粛であったため、百姓は彼に懐いた。[三]



1楼2005-12-18 12:03回复

    [一] 『呉歴』に言う。はじめ孙策が江都にいたとき、张紘は母の丧に服していた。孙策は何度も张紘のもとを访ね、世事の要务について质问して言った。「まさに今は汉の祚が衰微しつつあり、天下は騒扰し、英雄俊杰はおのおの军势を拥して私腹を肥やしておりますが、危难を救い混乱を治められる者は未だ现れません。先君は袁氏とともに董卓を打ち破りましたが、功业の未だ达成されぬうちに、黄祖の危害のために卒去いたしました。孙策は暗愚・幼稚であるとはいえ、ささやかながら密かに志を持っており、袁扬州(袁术)に先君のお遗しになった军势(の返还)を求め、丹阳の舅(呉景)のもとに驰せ参じて离散した者共を纠合し、东に行って呉会に拠り、讎を报じて耻を雪ぎ、朝廷のために外の藩屏になろうかと思います。君はいかがに思われますか?」张紘は答えて言った。「もともと空しく生を送る愚劣者であるうえ、ちょうど服丧中でもございまして、盛大なるご计画をお支えすることができませぬ。」孙策は言った。「君のご高名は他国まで広がり、远きも近きも懐き慕っております。今日のことの计略は、君によって决定されるのです。どうしてご远谋を启示されて、高山のごとくご尊敬するのに沿うてはくだされないのですか。もしささやかな志が遂げられ、血縁の讎に报いることができますれば、それこそ君のご尽力によるものであり、孙策の心より望むところなのです。」そして涙をあふれさせて泣き、颜色を変えることはなかった。张紘は孙策の忠勇さが内心から発せられ、言叶遣いは慷慨としているのを见て、彼の志と言叶に感铭し、そこで答えて言った。「むかし周の政道が衰えていったときは斉・晋がならんで勃兴し、王室がすでに安定したときには诸侯は职务について(王室に)贡献いたしました。いま君は先代の道を引き継がれ、骁勇の武名がございます。もし丹阳に身を投じて呉会で军势を手に入れたなら、荆州・扬州を一つにすることもできますし、讎敌に报いることもできましょう。长江に拠って威徳を振るい、もろもろの秽れた者共を诛伐排除し、汉室を正しお助けするならば、功业は(斉の)桓公・(晋の)文公を窥うほどであり、どうしてただ外の藩屏に留まりましょう?ちょうど今は世が混乱して困难が多くございますが、もし功绩が成し遂げられ事业が打ち立てられたならば、好を同じくする者たちと南に行って(长江を)渡られるべきでしょう。」孙策は言った。「君と(意见が)一致して符合したからには契りを结び、永久に固い间柄を持ち同じくしたいと存じます。いますぐ出かけなければなりませんが、年老いた母と幼い弟を君に委ねられたなら、孙策はもう回顾する心配はなくなるのです。」『江表伝』に言う。孙策はただちに寿春に赴いて袁术に谒见し、涙ながらに言った。「亡き父はむかし长沙から(洛阳に)入って董卓を讨伐し、明使君と南阳で合流して同盟の好を结ばれましたが、不幸にして危难に遭遇し、功业は完成を见ませんでした。孙策は先人の(袁术に対する)旧恩に感じ思い、自らお頼りして结びつきたいと存じます。愿わくば明使君、わが真心をご推察くださいませ。」袁术ははなはだ贵んで彼を评価したものの、そのくせ彼の父の军势を返してやることにはなかなか承知しなかった。袁术は孙策に告げて言った。「孤は初めに舅御(呉景)を起用して丹阳太守とし、従兄御の伯阳を都尉としたものだが、あれは精兵の地であるから、帰って身を寄せられ、募集をかけられるとよかろう。」孙策はついに丹阳の舅に身を寄せ、数百人を手に入れたが、泾県の大帅祖郎に袭撃されてしまい、ほとんど死にかけるところだった。こうして再び赴いて袁术に拝谒すると、袁术は孙坚の残した军势千人余りを孙策に返してやった。
    


    2楼2005-12-18 12:03
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      2025-08-19 19:03:22
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      この二王は圣徳がございまして、世に君主たるべき人物でございましたが、もしその时机に巡り会わなければ勃兴することはなかったのです。幼主には天下に対する悪事があるわけではなく、ただ御年がまだお若いため强力な臣下に胁迫されているだけなのです。もし罪过なくしてそれを夺ったなら、汤・武の事业に合致せぬのではないかと心配しております。第二です。董卓は狂乱狡猾ではありましたが、主君を廃して自分から(新しい王朝を)兴すまでには至りませんでした。それでも天下は彼の暴虐を闻き、腕を振るって心を同じくして彼を憎み、中原の戦いに惯れぬ兵をもって辺境の精悍な贼にぶつかり、たちまち魂をさすらわせることになりました。いま四方の人々はみな敌に惯れ戦闘に巧みになっております。対抗して胜つことができるのは、彼らが混乱して我らが治まっているとき、彼らが叛逆して我らが顺当なときです。当世の纷争を目の当たりにして(武力を)大挙してこれに対処しようとしても、灾祸に足を向けることができるだけです。第三です。天下の神器はむやみに犯すことはできず、必ず天の賛同と人の协力が必要になります。殷の汤王には白鸠の吉祥があり、周の武王には赤乌の瑞兆があり、汉の高祖には星の集合する符瑞があり、世祖には神々しい光の徴候があり、いずれの场合も民众は桀・纣の政治によって憔悴し、秦・王莽の役务に苦労しておりまして、それゆえ上手く无道を取り除き、その志を达成することができたのです。いま天下はご幼主におかれて苦しめられているわけでもなく、天命を授かる霊験も现されておりません。それなのに一朝にして突然にも尊号に即位せんとなさっております。未だこのようなことはありませんでした。第四です。天子の贵さ、四海の富を谁が望まないものでしょうか?(しかし谁も天子の位を窥おうとしないのは)道义において许されず、情势においてできないからなのです。陈胜・项籍・王莽・公孙述の辈は、みな南面して「孤」(帝王の谦称)と称しましたが、よく全うできた者はありません。帝王の位はむやみに欲しがってはならないのです。第五です。ご幼主はご聡明であらせられ、逼迫するものを取り除き、心配事を取り去り、必ずや中兴のご业绩を成し遂げられるでしょう。周の成王のごとき盛徳で主君に尽くし、(周公)旦・(召公)奭のごとき美名を自ら受けることこそ、まこと尊明に所望いたすところなのです。たといご幼主を他の者に改めるにしても、なお宗室の系谱家族から推荐し、近亲の贤良を论考し、それによって刘氏の皇统を継続させて汉朝の宗室を固められますよう。(以上のことは)すべて(あなたのためであり)金石をもって功绩が书き込まれ、丹青をもって姿が描かれ、余庆は尽きることなく受け継がれ、管弦により名声が伝えられるのであります。(それを)舍てて実行されようとせず、灾难を招くことなど、(あなたの)ご贤明な素质を想起すれば、きっと忍びがたいことでしょう。第六です。(あなたの御家は)五世代にわたって宰相となり、権威の重さ、势力の盛んさは、天下に比肩しうる者がございません。(御一门のうち)忠贞なる者はきっと『朝も夜も思惟にふけり、国家の踬きをお助けして社稷の危机を思い、父祖の志を奉じて汉室の御恩に报いるべきだ。』と言うでしょうし、践むべき节义をないがしろにして、夺おうとする欲望を逞しくする者は、おそらく『天下の人々のうち、我が家の执事でない者は门生である。だれか我に従わぬ者がおろうか?四方の敌のうち、我が同僚でなければ我が使用人である。谁が我に背くことができようか?代々の势力に乗じて决起し、それを夺取しない手があるか?』と言うことでしょう。両者の方法论を区别し、详しく観察しないではいられない者です。圣者哲人が贵ばれるのは、その时々になすべきことを弁え、挙动措置を慎んでいるからであります。计画しがたき事业、信頼しがたき威势によって、もろもろの敌の気持ちを激昂させ、多くの人の心を生起させようとするのは、公的な道义においても故より许されず、私的な计算においてもやはり不利であり、贤明なる哲人の実行しようとしないことです。第八です。世の人々の多くは図纬(予言书)に惑わされて无関系なことにまでこじつけ、文字を并べたりくっつけたりして上司を喜ばせておりますが、まったく目上の者におもねって民众をたぶらかし、最後になって後悔する者は、昔から今まで、未だかつて无くなることはありませんでした。慎重に选び取り、よくよく考えずにはいられません。第九です。(以上の)九つの点は、尊明がご存じのことの付け足しに过ぎませんが、事前の备えとし、ご失念の足しになさって顶きますよう。忠言は耳に逆らうものですが、ご神聴にあずかれば幸いです!」『典略』では张昭の言叶であると言っている。臣裴松之が思うに、张昭の名声は重々しかったとはいえ张紘の文章には及ばなかった。この手纸はきっと张紘が作ったものだろう。


      5楼2005-12-18 12:03
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        [五] 『江表伝』に言う。建安二年夏、汉朝は议郎王辅を派遣して戊辰の诏书を奉って言う。「董卓は叛乱し、国家に仇をなし人民を害した。さきに将军孙坚は征伐を思っおり、日ごろの心がけは未だ遂げられないまま(亡くなったの)であるが、その计略は著名である。孙策は善道を遵守し、幸福を求めて右顾左眄しない。いま孙策をもって骑都尉とし、乌程侯の爵位を袭封させ、会稽太守を领させる。」また诏勅に言う。「故の左将军袁术は朝恩を顾みず、いながらにして凶逆をなし、虚伪を捏造して兵乱を欲し、百姓をたばかり骗した。その报告を闻いたとき事実でないと思われた。使持节・平东将军・领徐州牧・温侯吕布の上表によって、袁术が民众を惑わして妄りな振る舞いをしていることがはっきりし、袁术の鸱枭のごとき性质と、その无道を遂げ、王宫を建设して公卿を配置し、天を郊して地を祀り、民众を杀して器物を损壊し、极めてひどい祸をなしていることが判明した。吕布は前後して上表し、孙策が本朝に心を寄せ、帰还して袁术を讨伐し、国家のために忠节を尽くしたいと愿っておるゆえ、顕著な引き立てを加えるように请愿してきた。そもそも恩赏を掲げて功绩を待つのは、ただ忠勤に対してこれを与えるためだ(?)。ゆえに宠爱授与し、前代の食邑を受け継がせ、大郡(の太守の任)をもって尊重する。栄耀がもたらされたこと、これこそ孙策が力を尽くし命を投げ出す秋である。すみやかに吕布および行呉郡太守・安东将军陈瑀と协力同心し、时を同じくして征讨に出立せよ。」孙策は自分が兵马を统领することについて、ただ骑都尉の官职では郡を宰领するのに軽すぎると思い、将军号が得られるようにと、人をやるに及んで王辅にほのめかした。王辅はそこで诏书に従って、仮の措置として孙策を明汉将军とした。このとき陈瑀が海西に驻屯しており、孙策は诏勅を奉じて厳を治めると、吕布・陈瑀とともに协力しあう形势を取ることになった。行军して銭塘に到着したとき、陈瑀は孙策袭撃を密かに计画し、都尉万演らをやって密かに长江を渡らせ、印章を持たせて三十余りの细贼どもに届けさせ、丹阳・宣城・泾・陵阳・始安・黟・歙の険阻な诸県の大帅祖郎・焦已、及び呉郡乌程の厳白虎らとともに内応させ、孙策の军势が进発する机を窥って诸郡を攻め取ろうと考えた。孙策はそれを察知し、吕范・徐逸を派遣して海西で陈瑀を攻撃させ、大いに陈瑀を撃破して、その官吏・兵士の妻子四千人を捕获した。『山阳公载记』に言う。陈瑀はただ一骑で冀州に逃走し、自ら袁绍に帰服した。袁绍は故安都尉とした。『呉录』に记载する孙策の感谢する上表に言う。「臣は顽固な性质で、一人で辺境で身を守っておりました。陛下におかれては崇高なご恩沢を広く布かれ、ささやかな节义も见落とされることなく、臣に爵位を袭わせ、名郡の统治を兼ねさせることになさいました。赐りました栄誉・恩宠は顾みて、(感谢に)堪えないところでございます。兴平二年十二月二十日、呉郡曲阿において袁术の上表文を読みましたが、(それによると)臣をもって殄寇将军を行わせるとのことでしたが、(今になって)诏书を被ることになり、(その任命が)身胜手な伪りであると分かりました。すぐさま舍て去ったとはいえ、それでも恐れと胸騒ぎがいたします。臣は十七歳のとき頼りとする人(父)を丧失し、父の仕事を継ぐほどの些事すら担うこともできず、薪割りの戒めを汚してしまうのではないかと恐れました。(霍)去病は十八歳で功绩を立て、世祖(光武帝)の居并ぶ将领たちは弱冠にして天命の君主を补佐しましたが、まことに(そのような功绩が臣には)ございませんでした。臣が初めて军势を宰领することになったとき、年齢は弱冠にも満たず、无能臆病で勇気もありませんでしたが、それでも(王室の)微かなる天命が尽きんとしているのを悬念いたしておりました。思うに、袁术は発狂惑乱し、悪事をなすことは深刻でございます。臣はご威霊の加护を蒙り、正义を奉って罪人を讨伐し、愿わくば必ずや捷报を献じ、ご授与に报いる所存でございます。」臣裴松之は考える。『本伝』では孙坚は初平三年に卒去し、孙策は建安五年に卒去したとあり、孙策は死んだとき二十六歳だったと言っている。计算すると孙坚の死亡时、孙策は十八歳だったはずだ。それなのにこの上表では十七歳だったと言っており、符合しない。张璠の『汉纪』および『呉歴』は、いずれも孙坚が初平二年に死んだとしているが、こちらが正しく、『本伝』が误っているのである。『江表伝』に言う。建安三年、孙策はまた使者を派遣して地方の特产物を献上したが、元年に献上したものの二倍であった。その年、诏书によって讨逆将军に転任し、改めて呉侯に封ぜられた。
        


        6楼2005-12-18 12:03
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          [六] 『江表伝』に言う。孙策は诏勅を被り、司空曹公・卫将军董承・益州牧刘璋らとともに力を合わせて袁术・刘表を讨伐することになった。军势が进発しようとしたとき、ちょうど袁术が死んだ。袁术の従弟袁胤・女壻黄猗らは曹公を恐れ、あえて寿春を守ろうとはせず、袁术の棺を一绪に舁いて、彼の妻子および部曲の男女の手を支えつつ、皖城の刘勲に身を寄せた。刘勲の粮食は少なく、救済してやることができなかった。そこで従弟刘偕を派遣し、予章太守华歆に食粮を买いたいと申し込ませた。华歆の郡でももともと谷物が少なかったので、役人を派遣して、刘偕を连れて海昬・上缭に行かせ、もろもろの宗帅たちに三万斛の米を供出させて刘偕に手渡すことにした。刘偕は一ヶ月をかけて行ったが、わずか数千斛しか得られなかった。そこで刘偕は刘勲に报告したが、つぶさに状况を说明し、刘勲にこの地を袭撃夺取するようにと促した。刘勲は刘偕からの手纸を受け取ると、军势を潜ませて海昬の城下に进驻した。宗帅たちはそれを知ると、城内を空っぽにして逃げ隠れたので、刘勲は结局何も得られなかった。そのとき、孙策は西进して黄祖を讨伐し、行军して石城に及んでいたが、刘勲が自ら海昬に赴いていると闻き、すぐさま手分けし、従兄孙贲・孙辅に八千人を率いさせて彭沢で刘勲を待ち受けさせ、自分は周瑜とともに二万人を率いて歩行で皖城を袭撃し、すぐさまこれを落とし、袁术の百官および鼓吹、部曲三万人余り、ならびに袁术・张勲(?)の妻子を手に入れた。上表して汝南の李术を用いて庐江太守とし、兵三千人を注ぎ込んで皖城を守らせ、手に入れた人々を东に移して呉に行かせた。孙贲・孙辅もまた彭沢で刘勲を撃破していた。刘勲は逃走して楚江に入り、寻阳からは徒歩で登って置马亭まで行ったが、孙策らが既に皖城を落としたと闻き、そこで西塞に入った。沂まで行って、防塁を筑いて守备を固め、危急を刘表に告げつつ、黄祖に救援を求めた。黄祖は太子黄射の船军五千人を派遣して刘勲を援助させた。孙策は再び攻势に移り、刘勲を大破した。刘勲は刘偕とともに北へ行って曹公に帰服し、黄射もまた遁走した。孙策は刘勲の军势二千人余り、船千艘を手に入れ、そのまま夏口まで前进して黄祖を攻撃した。当时、刘表は従子刘虎と南阳の韩晞を派遣して长矛队五千人を率いさせており、(刘虎・韩晞は)来着すると黄祖の先锋となった。孙策は戦って、大いに彼らを撃破した。『呉录』に所载する孙策の上表に言う。「臣は黄祖を讨伐するにあたって、十二月八日をもって黄祖の屯する沙羡県に着到いたしました。刘表が部将を遣して黄祖を援助いたし、ともども臣に立ち向かって参りました。臣は十一日の明け方をもって部下の领江夏太守・行建威中郎将周瑜、领桂阳太守・行征虏中郎将吕范、领零陵太守・行荡寇中郎将程普、行奉业校尉孙権、行先登校尉韩当、行武锋校尉黄盖らと同时に并进いたしました。我が身は马に跨って阵に临み、我が手は军鼓を激しく撃ち、戦闘の気势を整えました。官吏兵士は奋い立って勇跃すること百倍し、一心に、かつ勇敢に、おのおの竞って命を投げ出しました。几重にも重なる堑壕を飞び越え、迅速たること飞ぶが如きでございました。火が风上から放たれ、戦闘は烟の中で激しくなり、弓弩は一斉に発射され、振る矢は雨のように密集いたしました。辰刻に差しかかるころ、黄祖はようやく溃灭し、锋刃の切るところ、焱火の焼くところ、それを前にして生き延びた贼はありませんでしたが、ただ黄祖だけが逃走いたしました。彼の妻子男女七人を生け捕りとし、虎狼韩晞以下二万人余りの首级を斩りました。彼らのうち水に飞び込んで溺れた者は一万人余りになり、(戦利品は)船六千艘余りと山积みの财物でございます。刘表はいまだ捕らえられておりませんが、黄祖が长らく狡猾な真似をしており、刘表の腹心として、外に出ては爪牙ともなっており、刘表が势力を伸ばしたのは黄祖の息吹によるものでした。しかし黄祖の家族部曲は、地面を扫き清めたように残っておらず、刘表は孤立した捕虏でございますから、亡者となり死体となるばかりです。まことに皆もって圣朝の神武の远く振るわれたお阴をもち、臣は罪人を讨伐するにあたって、微力ながらの忠勤に成果を得られたのでございます。」
          


          7楼2005-12-18 12:03
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            [七] 『呉歴』に言う。曹公は孙策が江南を平定したと闻き、心中ではそれを非常に厄介だと思い、いつも「猘児というやつは、矛先を争うことはできないものだ」と言っていた。

            建安五年、曹公と袁绍は官渡で対峙した。孙策は密かに许を袭撃して汉帝を迎えんと企て、[一]密かに军势を整え、诸将を编制任命した。まだ进発しないうち、そのとき故の呉郡太守许贡の食客に杀害された。それ以前、孙策が许贡を杀したとき、许贡の末子は食客とともに长江の川辺に身を隠していた。孙策はただ一骑で外出していると、突然、食客と遭遇し、食客が孙策に袭いかかって伤を负わせた。[二]伤は重く、张昭らに请愿して言った。「中国はいまや混乱の真っ只中にある。呉越の军势、三江の坚固さを用いれば、成功失败を観望することもできよう。公ら、よくよく吾が弟を相けてくだされよ!」孙権を呼び寄せて印绶をまとわせ、告げた。「江东の军势を挙げ、両阵のあいだで胜机を决し、天下と衡を争うことにかけては、卿は我に敌うまい。贤者を抜擢して能吏を任用し、おのおのにその心を尽くさせ、それによって江东を保つことにかけては、我は卿に敌わないよ。」夜になって卒去した。时に二十六歳であった。[三]

            [一] 『呉录』に言う。当时、高岱という者が余姚に隠栖していたが、孙策は出仕を命じ、会稽丞陆昭を使者として彼を出迎えさせ、孙策は己を虚しゅうして伺候した。彼が『左伝』を得意としていると闻いたので、自分も熟読して议论をしようと考えた。ある人が彼に言った。「高岱は将军がただ武勇に秀でているだけで、文学の才能を持っていないと思っております。もし『(左)伝』について议论してみて『存じ上げません』と言うようなことがあれば、それは某の言叶通りだということです。」また高岱にも告げた。「孙将军の人となりは、自分より优れた者を憎まれます。もし质问を受けるたび『存じ上げません』とお答えになれば、ご好意を得られるでしょう。全てにわたって正论をご开陈なさるようなことがあれば、きっと危険な目に至りますぞ。」高岱はその通りだと思い、『(左)伝』の议论になったとき「存じ上げません」と答えることもあった。孙策は果たして怒り出し、自分を軽蔑しているのだと思って彼を収监してしまった。知人友人および居合わせた人々は地べたに座って赦免を请愿した。孙策は矢仓に登り、(彼の赦免を请う人々が)数里にわたって充満しているのを眺めた。孙策は彼が民众の心をつかんでいることを憎み、ついに彼を杀してしまった。高岱は字を孔文といい、呉郡の人である。天性の聡明通达さで、财货を軽んじて义心を贵んだ。彼が士人と付き合うときは奇矫な人物を选び、まだ有名にならぬうちから见出した。友达付き合いをした八人は、みな一世代の英杰ばかりであった。太守盛宪が(彼を)上计とし、孝廉に推挙した。许贡が来て郡を宰领するようになると、高岱は盛宪の手を引いて许昭の邸宅に避难し、陶谦に(会いに行って)救援を求めた。陶谦はなかなか救援しようとはしなかったが、高岱は憔悴しきって血の涙を流し、饮み物も喉を通らなかった。陶谦は、彼の忠义雄壮さには申包胥の义心があると感动し、军势を进発させることを许诺し、(高岱に危害を加えないようにと)手纸を书いて许贡に送った。高岱は陶谦の手纸を携えて帰还したが、许贡はすでに彼の母を収监していた。呉の人々は君子小人の区别なくみな危険だと思い、许贡はかねがね怒りを抱いているため、行けば必ず杀されてしまうだろうと言った。高岱は言った。「主君を持ったらば主君のために。そのうえ母上が牢狱に繋がれていて、行ってあげるのをお待ちなんだ。もし(役所に)入って(许贡に)会うことができれば、ことは自ずと解决するはず。」そのまま手纸を差し出して自分から申し出た。许贡がすぐに会ってみると、才能言辞は敏捷であり、自分から陈谢する様子も慇懃であった。许贡はその场で彼の母を解放してやった。高岱は许贡に会いに行くとき、友人の张允・沈に语り、あらかじめ船を用意させ、许贡はきっと後悔して後を追ってくるはずだと言っていた。(役所を)出るとすぐさま母を引き连れて船に乗り、道を変えながら逃走した。许贡はしばらくして人をやって彼を追わせ、追っ手には、もし船上で追い付いたら长江の上ですぐさま彼を杀すように、すでに渡り终えていたら谛めろと命じていた。追っ手が高岱とは违う道を取ったので、(高岱は)逃れることができた。诛杀されたとき三十歳余りだった。『江表伝』に言う。当时、道士である琅邪の于吉という者があり、以前は东方に寓居していたが、呉会(呉郡・会稽)に往来し、精舎を立て、香を焚いて道术の书物を読み、掟を定め、呪符や神水を作って病気を治疗した。呉会の人々の多くが彼に师事した。孙策がかつて郡の城门矢仓の上で诸将宾客を集めて宴会を催したとき、于吉は美々しく着饰って小箱を杖にし、漆でこれに絵を描いて仙人铧と名付け、城门の下を走り过ぎようとした。


            8楼2005-12-18 12:03
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              诸将宾客のうち三分の二は矢仓を下りて彼に拝礼して出迎え、宾客のまとめ役が叱りつけて禁止しても止めさせることはできなかった。孙策はすぐさま命令を下して彼を収监させた。彼に师事する多くの者たちは、みながみな妻女を孙策の母のもとに行かせて彼の助命を请うた。母は孙策に告げた。「于先生は军を助けて福をなし、将帅兵士を治疗看护しています。彼を杀してはいけませんよ。」孙策は言った。「こいつは怪しげなやつで、民众の心を幻惑させ、远くにいて诸将に君臣の礼を顾みることを忘れさせ、みながみな孙策を舍てて矢仓を下り彼に拝礼したのです。排除しない訳にはいかないのです。」诸将はまた连名で(手纸を书き)事情を说明して彼の命乞いをした。孙策は言った。「むかし南阳の张津が交州刺史だったとき、过去の圣人たちの経典教训を舍て去り、汉家の法律を廃し、いつも赤い帕头を著け、鼓を撃ち琴を掻き鸣らして香を焚き、邪悪な道术の书物を読み、それで教化の手助けにするのだと言っていた。(ところが)突如、南夷に杀されてしまった。これこそ无益の极み(の证拠)であり、诸君らはまだ気付いていないだけなのだ。いまこいつは鬼籍に名を刻まれた。これ以上纸笔を费やさないように。」すぐに彼を斩り舍て、市场に首を掲げた。彼に师事する多くの者たちは、それでも彼が死んだと思わず、尸解したのだと言って、またもや祭祀を行って御利益を求めた。『志林』に言う。むかし顺帝の御代、琅邪の宫崇が殿上に参り、师の于吉が曲阳の泉のほとりで得たという神书を献上した。白い绢に朱の罫线を引いており、『太平青领道』と号し、およそ百巻余りであった。顺帝の御代から建安年间まで五・六十年は経っていて、于吉は当时、百歳に近かった。老人・幼児には礼によって刑罚を加えないことになっている。また天子は狩りに出たとき、百歳の者がいるかを讯ね、その人に会いに行くことになっており、齢を重ねたことを敬い亲爱する。圣王の教化の极致である。于吉の罪过は死刑に相当するものではないのに、むやみに酷刑を加えてしまった。これは误った诛戮であり、褒められたことではない。(虞)喜が推考するに、桓王(孙策)が薨じたのは建安五年四月四日である。このとき曹(操)・袁(绍)は攻撃しあっていて、まだ胜败が付いていなかった。夏侯元譲(夏侯敦)が石威则に手纸を与えたのを调べると、(时期は)袁绍が败れたあとである。手纸では「孙贲に长沙を授け、张津に零(陵)・桂(阳)を営业させる」と言っており、これからすると桓王が先に亡くなり、张津が後に死んだのであり、张津の死を引き合いに出して难诘することなどできないのである。臣裴松之は考える。太康八年(二八七)、広州の大中正王范が『交広二州春秋』を献呈した。(それによると)建安六年、张津は依然交州牧のままだった。『江表伝』の虚伪は『志林』の言う通りである。『搜神记』に言う。孙策は长江を渡って许を袭撃せんと企てたとき、于吉を随行させていた。そのころ大旱になっており、至るところで猛暑に苦しんだ。孙策は将帅兵士を急き立てて、速やかに船を进めさせ、ときには朝早く出かけて自ら督促したりもしていた。将帅官吏の多くが于吉のもとにいるのを见ると、孙策はそのことで激怒した。「我が于吉に及ばないとでも言うのか。それで真っ先に彼のもとに走って仕えておるのか?」と言い、すぐさま于吉を逮捕させた。(于吉が引き出されて)来ると、彼を叱り飞ばしながら「日照りつづきで雨が降らず、道路は渋滞していてなかなか通过できないでいる。それゆえ朝早く自ら出かけているのだ。それなのに卿は忧虑を共にせず、安闲と船中に居座って鬼の态をなし、吾が队伍をぶち壊してしまう。今度こそ排除してやるぞ」と责め立て、人に命じて缚ったまま地上に置いて日に晒し、雨乞いをさせ、もし天を感応させて真昼までに雨を降らせれば赦免してやろう、さもなくば诛杀するぞといった。にわかに云気が立ち上り、たちまち合し、真昼になるころには大雨が一斉に降り下り、谷间に満ちあふれた。将士は大喜びして、于吉はきっと赦されるだろうと思い、みんなで见舞いに行った。孙策はついに彼を杀してしまった。将士は哀惜し、一绪に彼の亡骸を隠した。夜になると、忽然としてまたもや云が涌き起こって彼(の亡骸)を覆い、翌朝行ってみると、(亡骸が)どこにあるか分からなくなっていた。『江表伝』『搜神记』を调べてみると、于吉の记事が同じでなく、どちらが正しいのか分からない。
              


              9楼2005-12-18 12:03
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                『诗(経)』に言う。「君子に立派な计画があれば、小人も参与帰属する」、と。许贡の奴客がそれであった。

                [三] 『呉歴』に言う。孙策が负伤したのち、医者は「よくよく我が身を大切に守り、百日のあいだ体を动かさなければ治りますよ」と言った。孙策は镜を取り寄せて自分自身を映すと、左右の者に言った。「こんな颜になったというのに、それでもまた功绩を挙げて事业を立てることができようか?」牀几を推しのけて大昂奋したので、伤口はみな分かれ裂けてしまい、须臾にして卒去した。『搜神记』に言う。孙策は于吉を杀したのち、いつも一人で座っているときは、ぼんやりと左右に于吉がいるのを见ていた。心中ひどくそれを憎らしく思い、すこぶる常轨を逸していた。のちに伤が治りかけたとき、镜を取り寄せて自分自身を映すと、镜の中に于吉がいるのが见えた。振り返っても(彼の姿は)见えず、こうしたことが二・三度あって、ついに镜を殴りつけて大声で叫び、伤口はみな崩れ裂けてしまい、须臾にして死去した。

                孙権は尊号を称すると、孙策に追諡して长沙桓王と言い、子の孙绍を封じて呉侯とし、のちに改めて上虞侯に封じた。孙绍が卒去すると、子の孙奉が後を嗣いだが、孙皓の时代、孙奉が拥立されるという出鱈目な噂が立ち、诛杀された。

                


                11楼2005-12-18 12:03
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                  2025-08-19 18:57:22
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                  建议发到锋囝的吧了.....他够水平看~~~~~~


                  12楼2005-12-18 12:20
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                    我看不懂~


                    13楼2005-12-18 14:12
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                      * *!!回家抱着三国志把它看明!然后气绝...


                      IP属地:广东14楼2005-12-18 20:21
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                        ???不懂日文


                        IP属地:天津15楼2005-12-19 21:44
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                          日文......呃....比较好懂....韩文才难


                          16楼2005-12-23 21:19
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                            要是我说,恩,都不好懂~


                            17楼2005-12-24 13:05
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                              2025-08-19 18:51:22
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                              不难懂~~~~~不过要看天分.....


                              18楼2005-12-25 10:50
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