つまり、楽园パレードの真の支配者は「男の肩に座った少女」であるラフレンツェであり、见果てぬ望みを抱きながら彷徨を続ける「仮面の男」と、それに随従する死者たちを嘲笑い続けている。という訳ですね。
著しくラフレンツェのイメージを破壊しそうな结论ですが、少なくとも个人的には、これが最も纳得の出来る推测でした。
この说でいけば、ラフレンツェから见た「仮面の男」たちは、まさに永远に踊り続ける道化です。この点が、「グロい首吊りピエロのタトゥーが笑う」という表现に繋がるのではないでしょうか。
それでも尚、谛める事を知らずに抗い続ける「仮面の男Abyss」。同じ愿望を持つ死者达が彼に追随してゆく。
そして、それを无駄だと嘲笑いながら、彼らの行进に付き従うかのように振る舞うラフレンツェとオルドローズ。
时间という概念すら存在しない彼らのパレードは、永劫に终わることなく“何処までも続いてゆく”。
なんとも救いの无い结末ですが、その実、この「Elysion」という作品が内包する“闇”の部分には相応しいという思いもあります。
前述した「Abyssサイド」に於ける矛盾も、この场合には発生しませんしね。
という訳で、私が推すのはこの「男の肩に座った少女=ラフレンツェ」说なのですが、これに関してはどちらが正解という风に分けて考える必要もないように思います。
この物语は、「Elysion」と「Abyss」という表裏の存在を歌ったもの。ならば、その结末が両极の可能性を秘めていても、それはそれで実に“らしい”と言えるものではないでしょうか。
さて、これにて「笛吹き男とパレード」を通しての「物语としてのエリ组の结末」の考察は终わりなのですが、まだ解き明かさなくてはならない命题が残されていますよね。
それは勿论、「Track44」についてです。
この中で述べられています、「その男の妄念が永远を孕ませるならば」という部分に関しましては、これまでの考察を振り返れば纳得顶けるものと思います。
ですが、その後に続く「物语という歴史は几度でも缲り返されるだろう」という部分については、「エルの楽园」に於ける「几度目かの楽园の扉」や「几度となく开かれる扉」と同様、これまでの内容からでは解釈ができません。
私はPhase-2に於いて、これらの语句を根拠とする「ループ说」を否定しました。
ここまで読んで下さった方には明快の事と存じますが、私が考察した内容は、もしこれがループし続ける物语なら成り立たず、もしもその说を取り入れるならば、永劫の存在である「仮面の男Abyss」が无数に存在する事になってしまいます。
とはいえ、そのパラドックスだけでは「ループ说」を否定するには少々弱い。
されど、「Track44」の最後にて私达に问い挂けられている「楽园の真実の名」という命题に答えを示す事で、それを补强できると考えました。
皆さんは、「Elysion~楽园幻想物语组曲~」という一つの物语を通して、どの様なものが描かれていると感じたでしょうか。
私は、“表裏一体”であり、“不可分”であり、“対极”ですらある二つの感情こそが、この作品の主题であると考えました。
それを言い表す语句は、作品中にも何度か登场しています。そして、それこそが「楽园の真実の名」という命题に対する、私の回答でした。
「爱憎」。
爱情たる「Elysion」。憎悪たる「Abyss」。それが、私の结论です。
文学作品では良く使われる言い回しですが、爱と憎しみは别々の存在ではありません。「爱」の対义语は「无関心」であり、「憎しみ」は「爱情」の裏返しでしかないとされています。相手への执着という点で、両者は同质のものだからです。
そして、この「爱憎/LOVE and HATRED」こそが、「缲り返される」という表现の答えにも成り得るのです。
ごくありふれた、谁もが抱く当たり前の感情。
故に今この瞬间でさえ、その物语は何処かで“缲り返され”、新たな“扉を开き続けて”いる。
つまり「Track44」の「物语という歴史は几度でも缲り返されるだろう」という部分は、「Abyssサイド」の五人娘のように、“爱憎の果てに身を灭ぼしてさえ相手を求め続け、楽园パレードに参列する者は増え続けるだろう”という意味合いの言叶なのです。
どうです? これで「ループ说」なんてものが入り込む余地は、何処にも无いでしょう?
さあ、よく目を凝らしてみて下さい。
私の、そして皆さんの目の前にも、“楽园への扉”は常に存在している筈ですから…。
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