先 祖 「纪ノ木莵宿祢」 (纪ノ武内宿祢の弟)
家纹は木瓜を使う?(服部嘉十郎先生、広瀬喜太郎著) とあったが、木瓜は一般的な
家纹であるので何を使ったのか不明。
服部党の多くは、「重ね矢」など変化させた家纹が多く使われている。
天野屋の家纹は、「角にかたばみ」である。服部家の屋号が「天野屋」である。菩提寺
が高冈市片原町、妙国寺(日莲宗)にあるなどから、先祖が同じ可能性がある。
(しかしながら确证は取れていない。)
「服部伊贺守纪宗纯」 服部の先祖は伊贺の国阿拝郡(服部郷)の出である。
宗纯は同志50余家の人々と共に、宗良亲王等に奉じ、东国地方に転戦したが破れ、
50余家は参河、尾张、近江などに分散した。宗纯は尾张国津岛に移住。
その后戦乱の时代になったので、服部の名前が见つからないが、元亀、天正の时代
(室町时代、1570年顷)になって服部周伍というものが现れた。
その子に「躬林」(通称 弥助)がいて、そのまた子が「连及」(甚吉)である。
甚吉の本国は、美浓の国郡上に住み、天正年中、前田利家公、越前府中城时代に
御用商人として召しだされている。その后文禄年中、三ヶ国へ追随した。
尾张の国の七党の一つ、服部党と呼ばれた、豪族、末裔は同じ一族となる。
(服部党-服部友贞が有名、伊势长岛城の城主を务め、长岛一向一揆を主导、
1568年、织田信长の谋略にかかり、打ち破られている。服部半蔵は、别系统)
初 代 服部连休(通称、甚吉)、改め天野屋三郎右卫门と名乗り町人となる。
天野屋は服部家の屋号である。(菩提寺が同じ片原町、妙国寺である。)
なぜ屋号が「天野屋」を名乗ったかは不明。ちなみに同じ町宿老であった
「横町屋」(富田家)の屋号のいわれは少し面白い。初代富田新左卫门尉道信
(1530~1590)は越前朝仓义景の家臣であった。朝仓义景の遗命により大阪本愿寺
に在留するも朝仓灭亡后流浪の身となり、砺波郡蟹谷庄安养寺の横町に住んでいた。
二代目富田弥三右卫门宗清の时(天正年中)前田利家の越前府中时代に召しだされ、
伏见大阪に御用を务めた。その后利长と共に守山城に移りその横町に宅地を拝领して
住んだ。利长もその人望を买っていた部分もあって、いつも横町に住んでいたことから、
「よこちょ、よこちょ」と呼ばれ可爱がられた。そのような経纬から屋号が「横町屋」となったの
である。その后、富山城に移られた官舎に移住。三代「富田弥三右卫门可教」(1564
~1635)の时、高冈筑城と同时に高冈に移り材木などを拝领、高冈の宿老役を仰せ
つかった。正式に「横町屋」を称したのは四代目からである。
天野屋もまた前田利家公没后、前田利长公に仕え、守山城ならび富山城へ引越しされて
からも追随し、御用を勤めたとある。その后町人になることを愿い出て、天野屋三郎右卫门
を名乗った。(高冈市史など参照)(三郎左卫门ではなく三郎右卫门と确认したい)
庆长14年(1609年)3月富山城が焼失し、利长は新城と新しい城下町の建设を、
関野の地(现在の高冈)に建设を决め、それに伴い高冈の地に一町(109m四方)という
