明和顷まで「ゆきなんせ」、「きなんせ」と言ったのが安永に「きなんし」、天明に「おいでなんし」となり、化政に「おいでなんしェ」、「きなんしェ」となり、「おざんす」、「ざんす」は「おざりいす」、「おざりんす」などと変じた。 「ん」の音便を用いることが吉原言叶の特徴で、式亭三马は「嘘字尽」でオイランダ国またはアリンス国の语であるなどと戯れたが、「ん」の音便はもっと古くは京都の游郭で行われ、近松门左卫门が、あのござりんすが呑みこまれぬと书いているから、京都から転讹したものであろうという。
2。其他介绍:
吉原の游び方の心得を说いた『倾城三略巻』(著者不详、庆応元年)という本がある。时期が幕末の庆応元年(1865)というのも兴味深い。
庆応元年といえば、幕末の动乱期である。しかし、それはあくまで日本史としてみたときのこと。当时の江戸の男たちのほとんどは、武士や庶民にかかわりなく、徳川幕府が崩壊するなど梦にも思っていなかった。その関心の大きな部分は吉原であり、相変わらず女郎买いにうつつを抜かしていた。
同书のなかから、吉原言叶や、吉原七不思议を绍介しよう。
吉原について解说した本にはよく、吉原言叶として「ありんす」、游女の最高の位として「大夫」と书かれているが、江戸时代は约250年続いた。时代により风俗もかなり変化している。「ありんす」という言い方も、「大夫」という位も、皮肉なことに时代剧などでもっともなじみの深い文化・文政期や天保期にはすでに消灭していた。
なお、以下は、笔者が表记を现代风に改めたところもある。
吉原言叶
そうだということを そうざます
イヤなことを 好かねえ
きざなことを おたんちん
やきもちやきを 甚介
男女の交合を 床に入る
月経(生理)を 行水
耳盥を 半蔵
武士のことを やまさん
坊主を げんさん
田舎の人を 旅人众
商家の番头を 店者(たなもの)
惚れた男を いい人
妓楼の男の奉公人を ぎゅう(牛、妓夫)
茶屋の男の奉公人を 消し炭
买ってくることを とってきな
銭四文八文を 一匁二匁
文使いを 便り屋どん
男女が楽しむのを おしげりなんし
腹の立つを じれったい
つまみ食いを げびぞう



